次には、自発性の発達です。自発性の発達に伴って意欲も強くなります。この発達のためには、子どもに「まかせる」こと。「まかせる」というのは、子どものすることを見ていながら、口を出さない、手を貸さないということです。子どもは自分でもの事にぶつかっていき、そして、失敗し、何くそという気持で挑戦し、そして成功する、この体験が多ければ多いほど、意欲のさかんな子どもになります。その途中で、口を出されたり、手を貸してもらったのでは、意欲がそがれてしまいます。

では具体的に自発性の発達しているということはどういうことなのでしょう。
それは、自分のことが自分でできるということです。それは8ヶ月頃より始まります。まずはお座りです。次に這い這いであり、つかまり立ちです。こけても抱き起こさずに自分で起きあがらせることです。

これらのことは、同時に運動機能も発達させます。運動機能能が発達すると2,3歳の段階で公園などにいくと行動半径が広がりますので、いろいろな発見が増えます。いろいろなものに対しても興味が広がり、それが今後創造性につながっていくのです。

 幼稚園で少し転んだだけで骨折する子が増えています。自分で転ぶ前に親が手を差し伸べてしまい自分の身を守る方法がわからず、つまり体が傷つかないようにうまく転ぶことができないという結末なのです。
 
次に歩くということです。子どもはしたたかで、親がどうすれば自分の要求を受け入れてくれるかということを、いつも考えています。涙混じりの声で「疲れた」と言うと、だっこをしてもらえるなら、それを繰り返します。それが赤ちゃんの時であれば、泣けば抱いてあげるのは愛情表現であるでしょうが、3才にもなって、ベビーカーに乗っているか、だっこされたままの状態が多い子は、それだけで行動範囲は狭く、自分の手や体で感じることがなく、なおかつ運動面においてもたくさん歩いている子に比べると、その後差は歴然としてきます。

増して、お友達を求め始める時期がやってくると、他の子の動きについていけず、感じることも少ない為、社会性や協調性も育ちにくくなります。また精神面においても、疲れても気持ちをコントロールして、がんばって歩こうとすることで、自分の困難に立ち向かっていく、そしてそれを乗り越えるという人間として生きていく上で、非常に大切な要素が含まれているのです。それでも子どもたちは、親が自分の要求をどうすれば受け入れてくれるかを常に探っているので、だっこしてもらえないとわかると「眠い」「おなかが痛い」などと言い出します。

親としてはわがままであるのか、本当につらいのかを判断して、もし、子どものわがままであるのなら、「だめなものはだめだ」という一貫した姿勢を子どもに示し続けなければなりません。「今日は時間がないから・・・」「なんだかかわいそうだから・・・」とだめな日もあり、いい日もありというのは、子どもが非常に迷い、その迷いが甘えの構造を生み出すばかりか、親の身勝手によってせっかく落ち着いていた情緒面まで、だめになってしまうことさえあるのです。

子どもの精神年齢の発達を理想的なものにするためにはお母さんが子どもの月齢でどのようなことができていればよいかを、知らないことにはできません。

例えば探求心が旺盛で、何でもやってみようという子どもであれば、お母さんが「さあ、公園に行くわよ。」と声をかけると、お母さんよりも早く、帽子をかぶり、必要なものを持って、靴を履いて玄関で待っているでしょう。靴を1人で履けるには、気持ちだけでなく、足や手が靴を履けるのに必要な動きができなければなりませんが、ぴーすらんどで最も早く誰の手助けもなく一人で靴が履けるようになった子は1才4ヶ月でした。

ここで大切なことは、靴だけを一人で履かせようとお母さんが、がんばっても手や足が必要な動きができなければ履けないということです。その子は、1才になったばかりの頃、公園の幼稚園の子さえ怖がってなかなか進めないような大きな遊具を小さい体で、なおかつ慎重に進むことができていました。つかまり立ちの頃は、自分が手を伸ばしてやっと届く高さを何とかよじ登ろうとしていました。

反面、積み木遊びやパズルも大好きで、細かい手の動きもできていたのです。最近のお母さん方は、よく「うちの子はほかの子ができていることができない。」とある部分だけを取り上げて心配をされていることが多いようですが、子どもの成長というのは、ある部分だけを引き上げようとしても、親も子もできるまでに非常に時間がかかり、焦る気持ちで疲れるばかりなのです。

ぴーすらんどでは、精神年齢の発達面において、「だいたいこの頃にはこれができていた方がよいですよ。」というアドバイスをします。そして、そのために、または、それに付随して、できてこなければならないことを一緒にお伝えします。また、お母さんお一人お一人、また、子ども一人一人性格や考え方が違うのは、当然のことですから、それぞれにあった方法を一緒に考えていきます。

前出の1才4ヶ月で、靴が履けた子ですが、この子は3歳0ヶ月の段階ですべてのことができるようになり、「目のキラリと輝く元気で明るい子」となりました。「自分のことが自分でできるようになる」ということで間違ってはいけないことは、できるようになることだけが目的ではなく、その中で、子ども自身がたくさんの手段を自分で考え、判断し、決断し、やってみる、という課程を何度も繰り返す中で、失敗もし、嫌期もさしながら、やり遂げた達成感や満足感をより多く感じているということです。

そして、そのこどもの後ろには、失敗しても、成功しても認める部分を見つけ、適切な言葉をかけてあげられるお母さんやお父さんがいるのです。まずお母さん自身が子どもにさせよう、考えさせようとしなければ、何も生まれてきません。例えば、外出して帰ってきたとき、何も言わなくても上着が脱げるかどうかみてみましょう。洗面所に行き、手を洗い、うがいができるかみてみましょう。

お母さんからの言葉があればできるかもしれません。黙っていれば、意識なくいつまでも上着を着たまま遊んでいるかもしれません。一応一人で、上着の着脱ができる子どもでも、お母さんからの言葉がなければ、動けないようであれば、着脱ができることにあまり意味がないのです。まずは、自分のことができること、次に、状況判断が自分でできて、必要なことが臨機応変にできることこそが、本当の意味での「自分のことがじぶんでできる」ということです。

そしてこのように育ってきた子どもは間違いなく優秀で、知識を得ることに喜びを感じ、一つの情報からたくさんのことを感じ取り、自分からこつこつ勉強する子となり、自分の人生を切り開いていく子となるのです。